9割り主義を許さず、あくまで完璧な肌を追求する姿は、「病との共生」という概念が希薄化した現代が胎む特異的な現象かもしれません。
「病気」をひたすら排斥し、しゃにむに「健康」を追求せんとする、偏執狂的なまでの執着が、ぼくたちの文化の中にいつのまにか忍び込んでしまったようです。
一病息災とは対極をなす、激しい意志であり、渇望であり、抑制のきかない熱狂とさえいえるかもしれません。
「病気」は最下位にあり、トップにあると勝手に解釈している「健康」に向かって一直線にひた走る姿が浮かんできます。幻想にすぎない「完璧な健康」をゴールにするジョギングのようなものでしょう。
しかし、忘れてはいけないのは、無茶なジョギングの最中に心筋梗塞をおこして死亡することもあるということです。こういう妥協を許さないかたくなな態度は、「健康」というものをどこかで「完璧な肉体」にすり替えてしまった結果生じたのではないでしょうか。
医学本来の使命も、つまり人々の「健康」を維持するという役目も、知らぬまに「完璧な肉体」を追求する手段に変貌してしまったようです。
しかし、「完璧な肉体」というものは、初めから存在しないと考えるほうが、理に適ってはいないでしょうか。年令、性別、人種、環境に応じて、ホモ・サピエンスの肉体は非常に幅広い変異をもっています。
そして変異をもっていたからこそ、今まで生き延びて来られたわけです。20才の青年と80才の老人は、こと皮膚に限っても、たいへんな違いがあります。
もちろん青年の肌のほうが染みもしわもなく、はりがあり、老人の肌より美しいかもしれません。しかし、老人の肌がそうでないといって、病的であるとは決していえないのです。
おそらくこういった、ちょっと考えてみると奇異とまでにうつる「健康」指向、つまり「完璧な肉体」への妄執は、下等生物から高等生物へと生物は進化していき、その過程には適者生存の原理が働くといった、およそ150年も昔に唱えられたダーウイニズムの残滓が、未だドグマとしてぼくたちの意識を呪縛しているせいかもしれません。
しかしドグマはあくまでドグマであり、決して厳密な実験で証明されたものではありません。いわば宗教と同じようなものなのです。
しかし欧米の文化が世界を圧倒している限り、このドグマの呪縛はしばらく続き、シュワルツェンネッガーのような肉体へと人々はなびき続けるのでしょう。
それが悪いとはいいませんが、極端になると、やはり危険なことではないでしょうか。「完璧な肉体」が幻想であるように、「完璧な肌」など存在しないのです。